特攻隊員 家族へ宛てた最後の手紙

最近、若い方が回転寿司店やゲームセンターで悪ふざけしている行為をSNSに投稿したりと言う記事を目にする事が多くなりました。

おそらくこういった悪ふざけは前々からあったけど最近記事に上がる事が多くなかった、と言うのかもしれません。

それはさておき、今回は戦争のあった時代、同じ位の歳の若者はどんな思いで戦地に向かって行ったか。最後に家族へどんな言葉を残して飛び立って行ったのか、ほんの少しでも知って頂きたいと思い、特攻隊が最後に家族へ残した遺書を幾つか取り上げてみることにしました。

 

coredake.com

塩田 寛

 

一飛曹 18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死

戦いは日一日と激しさを加えて参りました。父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。私は潔く死んでいきます。今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう

 

山下 瀞

陸軍中尉

昭和19年12月7日 サイパン島にて戦死
静岡県出身  23歳

父上母上様

瀞は幸者でした 喜んで笑って行きました 最大の親孝行も致しました 安心して行きました
専門教育迄受けさせて戴き我儘をやって来ました
故郷の山河、浜名の湖水に、遠州灘に、瀞の魂は幸福に寝っています。
姉様楽しき日を御祝致します
満雄、後は頼んだぞ 士郎、俺の分まで孝行してくれ 益雄、しっかり勉強して偉い人になれよ 多可士、御母様の手伝をしなさいよ 悟朗よ、益雄、多可士の面倒を見てやれよ
瀞様は皆を何時もあの青空で見ていますよ

一億の人に一億の母あれど  吾が母に優れる母あらめやも
御母様古賀幸子様に宜しく御伝へ下さい
では さやうなら

 

横山 善次

陸軍大尉
昭和20年8月13日 犬吠埼東方洋上にて戦死
茨木県出身  二十二歳

私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事は有りません。只戦が勝つまで頑張って下さい。充分健康に注意して・・・。
私は必ず立派に目的を達成します。私が今頃只本当に御両親様に御世話になり、又数々の御心配をおかけした事は御許し下さい。今迄御両親には何とかして安らかな生活をさせたいと思って居りました。それも出来ませんでした。愚人の空想でした。
ホンノ少しでは有りますが、このトランクに入って居る品、私が一生懸命にためたものです。食べたかったのを食べずにためました。
大きな箱の中に入って居る清酒其の他の品は、七月三十日、出撃準備命令と同時に出撃者のみ頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それもできませんでした。本当につまらぬものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べて下さい(中略)。
では皆様、充分健康に注意され、最後まで頑張って下さい。私は立派にやります。
さやうなら

 

相花 信夫

少尉(宮城県

宮城県出身 少年飛行兵14期
陸軍特攻第七十七振武隊
昭和20年5月4日沖縄周辺洋上にて特攻戦死 18歳

母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い
俺は幸福であった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

 

富澤 幸光

中尉

海軍第十三期飛行科予備学生 神風特別攻撃隊第十九金剛隊 昭和20年1月6日、爆装零戦に搭乗し比島マバラカット基地を出撃、リンガエン湾にて戦死 23歳

お父上様 お母上様

ますます御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。

お正月もきました。 幸光は靖國で二十四歳を迎へることにしました。 靖國神社の餅は大きいですからね。

父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。お正月になつたら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思ひ出話をするのも間近かでせう。

靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。 きっと来て下さるでせうね。

本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。 私がやらねば、父様、母様が死んでしまう。否、日本国が大変なことになる。 幸光は誰にも負けずきつとやります。

母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。母上様も幸光と共に御奉公だよ、いつでも側にいるよ、と言って下さつてゐます。心強いかぎりです。

 

富田 修

中尉

長野県出身 日本大学卒 海軍第十三期飛行予備学生
昭和19年9月3日台湾にて殉職 23歳

我一生ここに定まる。
お父さんへ、いふことなし。
お母さんへ、ご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。
それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。
一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。
父ちゃん!母ちゃん!僕は何度もよびます。
「お母さん、決して泣かないで下さい」
修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。
勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。
ではまた。

 

茂木 三郎

神風特別攻撃隊 第5神剣隊
少尉
昭和20年5月4日 沖縄周辺にて特攻戦死 19歳

僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せて下さい。

しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

それが僕の別れのあいさつです。

 

水知 創一

海軍大尉
回天特別攻撃隊「轟隊」昭和二十年七月十六日 本邦東南海面にて戦死
兵庫県出身 早稲田大学 二十一歳

愼二様
急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。では元気でしっかりやって下さい

服部 壽宗

海軍少尉
神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
昭和20年4月16日 南方諸島方面にて戦死
三重県出身

節子殿

兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機電撃機天山に特攻用爆弾を抱きて命中、男一匹玉と砕け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
節子も今では立派な可愛い女学生となったことであろう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。兄の一人ぐらいが死んだとて何も悲しみなげく事はない。
兄は喜んで天皇陛下の為め、重大危機に直面して居る日本の為め、一億国民の盾となって散って行くのだ。少しも悲しまずに笑って兄の魂を迎えて呉れ。(中略)兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いている。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思って見て下さい。

さやうなら。母上を御願ひ致します。

出撃前夜 兄
親愛なる妹 節子殿

 

伊藤 甲子美

陸軍衛生伍長  二十六歳マリアナ島にて戦死

妻宛書簡

季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

 

篠崎 眞一

海軍少佐 横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日 内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳

玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

 

谷口 吉元

陸軍衛生少尉

昭和20年2月27日 フィリピン群島ルソン島クラーク方面にて戦死
三重県出身  二十九歳

いよいよ 動員下令になった 明日又は明後日は出発する事と思う 男子の本懐之に過ぎるものはない 勇躍して征途に着く 目的地は日米の決戦場「レイテ」島であろうと予想せられる お前の最後の手紙を今日手にした女々しいかもしれぬが持参して行く 恵まれぬ夫婦生活だったね しかしくれぐれも体を大切にして父母上の事を宜しく頼む 又子供の養育を御願ひする
私は今お前の強い 意志を信じて心置きなく大命の下 決戦場に身を挺する事が出来る 運命は神が支配せらる 私の肉体は何処に在ろうとも 心は必ずお前達母子三人の上に永遠の幸福を祈りてあるぞ(中略)
くれぐれも御自愛を祈る

久子殿
吉元

 

近藤 八郎

海軍兵曹長
第66警備隊 昭和19年2月6日 マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
長崎県出身  27歳

短期間の実に楽しい結婚生活であった。厚く御礼を申す。俺も此の度は生還は帰し難し。武人の妻として誇りを持ち絶対に取乱してならぬ。七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。くどい事は申さぬ。幾時も申していた言の葉を思い起こし、老先短き両親に仕える様。尚坊やの顔も見たいけど致方ない。清く美しく育てて呉れ。男子の場合は姓名近藤征一郎。女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。暑さ寒さに留意され自愛専一に。二十二日夜認ム
敬具
夫より    マスエ殿

 

篠崎 真一

海軍少佐
昭和19年6月29日 内南洋方面にて戦死
東京都出身  二十四歳

玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思っている。苦労のみかけ、厄介ばかりかけ、何等尽くし得なかった事済まなく思っている。
四月十五日以来僅かな月日であったが、私の一生の半分に値する月日であった。父母に孝養を尽くしてくれ、私の分迄。
私に逢い度ば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きている。
結婚のすべての手続き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を頼むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸せを感謝している。最愛の玲子、御身を常に見守っているよ。
出撃前夜
海軍大尉 篠崎真一

 

以上

 

幾つか抜粋して掲載させて頂きました。

 

如何だったでしょうか。

若者達は皆、育ててくれた両親に感謝して、たった一つしかない命を将来に託して散って行きました。

 

出来る事なら両親とずっと居たかったでしょう。愛する兄弟や妻と居たかったでしょう。子供のある夫婦であれば、そばに居て成長を見守りたかったでしょう。

 

しかし、この若者達は次の世代に託し、國が良くなる事を信じて、たった一つの命を國の為に使う道を選んだのです。

もしこの若者達が今の日本を見たら喜ぶでしょうか。

 

また翻って今私達に出来る事は何でしょうか。私も良く考えてみたいと思いました。

 

平安時代から室町時代

平安時代になりひらがなとカタカナが生まれました。

そして平家の時代になり日宋貿易により力をつけますが、実は正式な貿易ではなかったと言う話を載せておきました

他に椎葉村の話も載せておきました。

 

時代は室町時代になり一日三食になったとありますが、どうだったのでしょう?

 

1つ気になった点として

子供が使ってる資料に1590年に豊臣秀吉が天下統一と書いてあります。

 

東北の武将に九戸政実と言う武将がおりました。その九戸政実は1591年まで豊臣軍と戦っておりました。

勝あてなど無い無謀な戦いでしたので長くは戦えませんでしたが、ポイントは豊臣に対する戦いだったと言う事です。豊臣に対する反乱である以上1590年に天下統一と言えるのか少し疑問を感じました。

 

飛鳥時代から奈良時代、平安時代

 

飛鳥時代になると蘇我氏が力をつけて来ますが蘇我氏朝鮮半島の出身だったと言う説がありますので、その記事を載せておきました。

 

そして、この頃は遣唐使など唐との関わりも出てきますので唐はトルコ人が作った国であることを鮮卑、拓跋氏などの解説も交え載せておきました

 

奈良時代に入ると、なんと言っても奈良の大仏です。

そこで大仏様にまつわる面白い話として、実は大仏様の開眼式に宇佐八幡の神様と対面していた話を載せておきました。

 

なぜ平城京から平安京に都を移したかと言う説にエネルギー問題を抱えていたのではないか?と言う説がるのでそれを載せておきました。

次に藤原氏の時代になりますが健康には気をつけましょう。

 

 

 

 

教科書に載らない歴史

続いて教科書には載ってないですが、私なりに知っておいた方が良いと思った人物を挟んでおきました。

 

先ずは楠木正成公と和気清麻呂公です。皇居外苑に像として建立されているこのお二方は知っておいた方が良いと思いました。

 

楠木正成公については後醍醐天皇への忠誠心、桜井の別れ等について説明文を添付し、

和気清麻呂公については道鏡事件について説明文を載せておきました。

 

次に載せたのが大伴部博麻(おおともべのはかま)です。

 

 

そして白村江の戦いについての説明

 

これは1つの仮説ですが旧唐書に当時の日本は倭国と日本と分けて記述されており、2つあった。しかし白村江の戦いにより九州王朝が滅亡して大和政権が併合したと言う説があったので面白いと思い載せておきました。

 

 

これは青銅鏡の分布図です。最初は九州に集中していましたが、徐々に近畿地方に移って行くのが分かります。

以上が教科書には載ってませんが個人的に掲載した資料です。

古墳時代

 

古墳についてですが教科書的を読んだ印象としては古墳は天皇が自分の力を誇示する為に作らせたような感じの説明でしたので仁徳天皇の「かまどの煙」の話を載せておきました。

 

 

 

これは1つの仮説ですが実は古墳は田んぼを作る際に出た残土だったのではないか?と言う説を面白いので載せておきました。

 

田んぼを作るためには地面を平らにしなければなりません。するとどうしても残土が出ます。そこで残土で古墳を作り、「自分達の天皇は民の為にこんなに頑張ってくれた」と言う感謝の意味もあったのではないか、故に「仁徳」と言う由来もそこにあるのではないか?そんな視点から歴史を想像するのも面白いと思いました。

 

 

旧石器時代

教科書では5500年前から説明しておりますが、我が国では3万5000年前(旧石器時代)の遺跡が次々と発掘されておりますので資料に入れておきました。

 

 

 

人類は600万年前アフリカで誕生しました。そして中東に登場したのが200万年前、中東と言う場所は世界に拡散する玄関口にあたる場所だったのでしょう。

 

中東と言う地形は変化に富んだ場所でもありました。西は地中海沿岸のレヴァント地方、南はアラビア半島、北はコーカサス山脈、東はアフガニスタン、中東と言うと乾燥地帯と言うイメージがありますが、実際は緑が広がる沿岸平野から万年雪が残る高山帯までありました。

 

 

遺跡へ目を向けてみますと、現在のところ西アジア最古の遺跡は200万年前のシリアのアイン・アル=フィルが代表的な遺跡になります。

そして最古の都市の1つが南メソポタミアウルク、紀元前4000年紀には250haに達し人口ほ数万人程だったようです。北メソポタミアではシリアのブラクと言う都市が興り中心部は100haほどの都市、その後アッカド帝国、アッシリアバビロニアヒッタイト…と誕生していきました。

少なくとも紀元前5000年頃まではかなり平等な社会だった事が分かってきたようです。

 

文字の出現ですが紀元前4000年紀に現れる最初の文字は事物の形を簡略して刻んだ文字でした。羊や麦などを表す土製品を作り貸し借りの際に数を管理していましたが、やがて粘土に刻むようになったのが文字の始まりのようです。

 

因みに日本最古の土器についてです。

https://www.nukumori1.com/odaiyamamoto/

大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき) 青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田大平山元から発見された土器が炭素14年代測定法によって、約16,500年前のものであると推定されました。
この土器は、炭素14年を年輪や珊瑚年代を使って暦年に換算する国際校正曲線 (INTCAL 98)を使ったものなので当時の最先端技術を用いた制度の高い測定でした。

 

2009年、中国・湖南省の洞窟遺跡で約18千年前とみられる世界最古の土器片が発見されたと発表がありましたが、地層からの推測なので、炭素14年代測定を行えばはっきりするでしょうが、測定されたと言わないところを見ると眉唾もののようです。
異議がでた後、炭素14年代測定を行って結論を出したと言い出したようです。

しかし、日本の専門家たちが調査させて欲しいと要請しても拒絶され、盗まれて今はもう無いとされる胡散臭い代物のようです。

 

 

 

日本の始まり

私が触れる機会があったのが東京書籍の教科書でした。この教科書を見て思ったのがいつから日本が始まったのか分からないと言う事でした。実際、子供に「いつから日本かる始まった?」と聞いても「分からない」と言う返事でした。

そこで私は教科書だけでは不十分だと思い、独自に教科書の足りない部分や間違いを修正するための資料を作りファイルにまとめました。

それが、このファイルです。ではこのファイルにまとめた資料と教科書に沿って話を進めて参ります。

先ず一番最初に天皇陛下と自分のつながりについてを入れました。

建国記念日とは太陰暦の1月1日で神武天皇が建国を宣した日である事、太陽暦で言うと2月11日に当たる日であることを載せました。

今上陛下は第126代の天皇陛下でああることを説明して、この様なかたちで自分達と天皇陛下は繋がりがあることを説明しました。

因みに教科書には神武天皇の説明が一切無いため、子供達は天皇陛下と自分はどう繋がっているのか分からないのも仕方ないと思います。

子供にはこの辺をしっかり説明して日本は建国から天皇陛下を中心に歩んで来たことを説明してあげました。

 

教科書の方は建国については触れず石器時代から始まっておりました。