しつけ

元々の事ではあるが、所謂団塊世代と呼ばれる方達の自国を愛せない反日的な思想、又は若い人達にとって規範となるべき年代であるにも関わらず、中々その様な行動をとれない方が多いことに疑問を持ち、今回は教育について書くことにしました。

 

先日沖縄の辺野古での違法テントの様子を見ました。

年の頃70代位でしょうか?他の方達であれば孫達に囲まれて幸せな余生を送っている方も多いかと思います。

しかし、この方達はそれとは無縁のようにも見受けられました。

「違法建設反対」と書かれた基地建設に反対する幕を「違法テント禁止」の立て札がある場所に建てる。そんな様子でした。

何故この方達は、こんな老人になってしまったのでしょうか?

 

教育学を学んだ方ならご存知かと思いますが、社会学者のタルコット.パーソンズ(1902~1979)についてお話したいと思います。

 

パーソンズは家族の中での子供の社会化を体系的に分析した方です。

ただ時代の変化に伴い、必ずしも正しいとは言えないと言う批判もありますが、普遍的なものもあり学ぶ部分は多いと思います。

 

まず子供は社会に出る前に家庭の中で育ちます。そしてその子供の価値観の規範となるべき存在が「母と父」その母と父の役割について話したいと思います。

生まれた子供が一番最初に取り結ぶ他者との関係は母親との関係になります。

しかし、その関係は胎内にいるときから形成されているのです。そしてその時から母親は母親になる準備態勢を整えているのです。

しかし、ここで最初の危機が子供に訪れます。「口唇危機」です。

母乳、ミルクを飲めなければ生命を維持できません。

その次に訪れるのが「肛門位相」です。ここで人は初めて「しつけ」と言うものを受けます。それと同時にここで子供は母親と自分を分化させます。

今までは泣きさえすればミルクを与えられ、泣きさえすればオムツを替えて自分にとって心地よい環境を整えてくれる存在でした。

しかし、トイレを教えなければならないという、いわば一心同体とも言える状態から初めてここで母親と自分の分化と言う状態になるのです。

そしてここで一方的に愛情を受けるだけの状態から今度は母親に愛情を与える存在に変化していくのです。

トイレの訓練は最初から上手く行くものではありません。

何度も何度も失敗してしまいます。それでも母親は自分を信じて待ってくれます。

そして上手く出来たときは喜んでくれ、褒めてくれます。

子供は母親の気持ちに応えようと努力する、こうして愛情を受けるだけでなく母親は愛情を与える存在に変化していくのです。これを愛情依存期と言います。

 

父親の存在

愛情依存期の次に来るのが、結構耳にしたことが多いと思いますが、「エディプス位相」です。名前の由来はギリシャ神話からですがここでは割愛します。

性の差異に気付く3~5才頃の男児には異性の母親に愛情を向け、同性である父親に敵意や憎悪を向けると言う無意識の感情があると言うものです。しかし、後に女児にもそう言った感情はあるという事になり、今では女児も含めてエディプス位相と呼ばれております。

 

さて、いよいよ父親と母親の役割について話していきます。

 

父親は家族を社会に結び付ける役割を担っています。父親は家族内では社会の代表者です。

父親は外の産業に出て職業に従事し、収入を得て家族の生活の安定を図ろうとする。

家族と言う集団の目標は生活の保障であり安定です。

また、父親の職業上の地位や経済的能力を通して家族の階層的地位が位置づけられると言う事もあります。

父親は家族集団の様々な事項について主導権、決定権を有しています。その為時に指示したり、命令したり、強要する事もあるのです。

この父親の姿は子供にとって職業人としてのモデルであり社会人としてのモデルでになるのです。

この段階になると子供は母親と父親の言動の差異に気づき、同性のモデルとして親を模倣するようになるのです。

 

一方母親はと言うと、母親は子供にとって何より安定感と受容の源泉なのです。

一番と言っていい母親の大切な役割が「父親の解説者」です。父親の役割は手段的リーダーとして家族に影響力を行使します。

どうしてもそこから緊張感や疲労が生まれます、母親の役割としてその融和を図っていく役割が必要になるのです。

母親の解説によって父親に対して抱く緊張や不安を和らげると言う役目があるのです。

母親と子供の間には既に深い信頼関係が形成されています。

子供にとって父親とは心地よい安定的な母子関係に介入してくる邪魔者でしかないのです。これがエディプスコンプレックスなのです。

母親はそこで父親を解説するのです、父親に対してとるべき態度、行動を示し子供を父親との関係の中に取り込んでいく。

子供が何らかの願望や欲求を抱いたら「お父さんにお願いしてごらん」「お父さんに聞いてごらん」と言った具合に家族内での父親の存在と位置を理解し自身との関係のあり方を知るのです。

 

続いて規範性と自立性の形成についてお話します。

 

子供の社会的人間としての自立性と規範性は父親の権威との関係から基礎が形成されて行きます。

権威は父親だけでなく母親にもあります。母親は愛情の源泉と言いましたが勿論父親にもあります。

母親の権威を自然過程で生じるものとすれば父親の権威は父親の「強要」と母親の「解説」によって生じると言えるでしょう。

先程も申しました通り、父親は統率者、権力者と見做されています。

これは家族の生活の安定化と安全を維持する為の正当性のある権力です。

その為、父親は何が許容され何が許容されないかという判断基準、行動基準を家族に明確に示さなければなりません。

父親は家族の規範に同調的な「態度・行動」を承認し、そうでない「態度・行動」を拒否する。これが「しつけ」なのです。

こうした父親の規範的な要求と禁止が子供の態度、行動の「判定者」言い換えれば「内なる声」になったとき、それは父親の規範的な要求と禁止が子供の内面に取り入れられた状態になり、子供自身の価値、信念、行動様式の構成要素になったことを意味します。

 

次に自立性の確立についてです。

 

こうして内面化した社会的規範、それを子供自身が自己の行動枠として遵守するべく自らの感情、態度、行動を律して行くよう実行する能力が必要です。

これが自立性です。社会規範を「内なる声」として、それに従って自己を拘束し、自らの感情、態度、行動をコントロールして自己を方向付けていく実行力です。

他者に依存する事なく、また他者からコントロールされることなく自ら判定し決定して、それを自立的行動として実現していく能力が「個人」としての自立性です。

 

フロイトは「自我、超自我、イド」をあげていますが父親によるしつけが超自我にあたるものではないでしょうか?

簡単に説明しますと、「イド」というのは自由奔放、意のままに振る舞いたい意識、「超自我」というのが過去の厳しいしつけなどにより自分を押さえつけ模範的に振る舞おうとする意識、「自我」というのがイドと超自我をコントロールして適切なプランを組み立てる意識です。

現在の反日的な方をみると、自我によるコントロールが崩壊して、イドが暴走している状態と言えます。ある意味まともな判断力がある精神構造とは言えないと思われます)

 

沖縄のテントにこもっている老人達はどの様な成長過程を経てあのようになってしまったのだろうか?

戦後GHQにより、まともな教育を受けないまま、また戦後の傷跡が癒えない混乱期に家庭で満足な父親母親の家庭教育を受けないまま、成長してしまったのであろうか?

本当に憐れである。

しかし現在その老人達が社会的に重要な役割についているのです。

人の成長や深みというのは一般的に長く生きていれば自然と備わってくるものと思われる。

しかし、沖縄で暴れ回っている老人や反社会的なデモ行進をしている老人達にはその様な人間としての深みというものを感じない、寧ろ嫌悪感や哀れみの感情が湧いてくる。

まさにあの年代は教育の失敗のなりの果てと言えるのではないだろうか?

また、これからの日本は二度と同じ失敗を繰り返さないようにしっかり教育していくべきではないだろうか。

横文字

最近ニュースを見てると、やたらと政治家や行政が横文字を使ってるのが気になり、

なんでこうも横文字ばかり使うんだろう?と言うのを自分なりに考えたのを記事にしてみます。

 

日本語には大きく3つの語種があります。和語、漢語、外来語です。

その割合は和語1/3、漢語1/2、外来語と混種語が各々1割弱ずつです。

 

元々の和語より漢語が多いことに意外性を感じた方が多いと思いますが、江戸末期から明治以降に知識人達が西洋の概念や用語を片っ端から日本語に置き換えたのです。

 

その際、日本語の側で受け皿になったのが漢語と言う形だったのです。正確に言うと漢語的な翻訳語と言ったところでしょうか。

 

例えば「社会」「個人」「自然」「権利」「自由」「恋愛」と言う言葉も明治期に作られた翻訳語です。もしこれらの言葉がなかったら

 

「社会における個人の自由な権利」と言えないので「世間で一人一人の人が好きにして良い事」とでも言うのでしょうか。

 

どうでしょう、同じような事を言ってるのに受け取り方に大きなニュアンスの違いがあったのではないでしょうか。

 

その理由として「漢語は意味の輪郭が明確な印象」であるのに対して「和語は意味の規定が緩い印象」があるのではないでしょうか。

 

これが漢語の特徴でしょう、漢語にはこの他に立派で正しそうと言う印象もあると思います。

 

 

次に横文字の話に移りましょう。

漢語が曲がりなりにも外国語を日本語風の単語に置き換えたのに対して(だから漢語は分かりそうな気にさせる)片仮名言葉は原語の音を写し取るだけだから意味が分かりません。

 

片仮名言葉が流行り出したのは大正時代でした。「デモクラシー」「サボタージュ」→(サボる)もその例です。

 

しかし、外来語には先物買い的な危うさがあります。新語は片仮名言葉として突然現れ、知っている人は話に加わる事ができ、知らない人は排除されると言う情報格差が生じると言う問題です。

 

これが経済用語で一線のビジネスマンと一般人で多少の知識差であれば仕方ありませんが、医療や福祉関係の言葉であれば困ってしまいます。

 

インフォームドコンセント」「セカンドオピニオン」と言う言葉の意味を理解しているのは高齢者でも前世代でも4/1に満たないと言うデータもあります。

 

その為徐々に外来語の言い換え提案も試みられています。

 

インフォームドコンセント納得診療、説明と同意

コンプライアンス法令遵守

アジェンダ→検討課題

 

インフォームドコンセントは確かに事柄自体の新しさがあります。それまでは、どのような治療を施すかは医師の専権事項のようなところがあったのを、期待される効果とありうる危険性を十分説明した上で、患者自身が選択すると言う大きな転換と言えるでしょう。

しかし、コンプライアンスはどうでしょう?法令遵守なんていつの時代も当然の義務でした。

アジェンダも必要性がかなり疑わしいです。選挙キャンペーン用に使われた「マニフェスト」に代わる新味が欲しかったのではないでしょうか。

 

こう見てくると片仮名言葉には、「これまでなかったと言うニュアンスを出したいと言う使い手の願望」のようなものを感じます。

 

アウトソーシング→外部委託

リユース→再利用

 

会社や行政が業務の一部を外部委託するなんて従来からやってました。

わざわざアウトソーシングなんて言う必要性があるんでしょうか?

リユース、再利用の事をわざわざリユースなんて言う意味が分かりません。

ただ単に「新しい取り組みをしてます」って言うパフォーマンスでしょう。

 

片仮名言葉には「新しそうで意味が良く分からない」と言う特徴があります。

それが外来語の正体ではないでしょうか?

言葉が新しいのと内実を伴うかどうかは別問題です。

 

さて3つ語種の特徴を整理すると

 

分かり過ぎるが嘘をつかない和語

立派で正しそうな漢語

かっこよくてわからない外来語

 

と言ったところでしょうか?

 

どっかの知事が「アウフヘーベンが…」またどっかの政治家が「アジェンダが…」どっかの行政が「リユースが…コンプライアンスが」等とやたらと横文字を使いたがる理由が何となくわかったのではないでしょうか?

 

しかし先程も申しました通り、新しい取り組みと内実が伴うかは別問題です。

我々はしっかり監視していく必要があるのではないでしょうか。

 

 

セクハラ

さて最近やたらと耳にする機会の増えた、この「セクハラ」についてです。

 

私はまず前提として、皆が何がセクハラにあたるのか理解している必要があると思うのです。

それがないまま、これがセクハラ、あれもセクハラとなってしまっては悪意の持った人に都合のいい言葉として利用され兼ねないのではないかと思うのです。

 

ちょっと話はそれるのですが、私にとってはヘイトスピーチと似たような印象があるのです。

どこが似てるのかと申しますと、言葉の定義がはっきりしないというところです。

皆さんもこのセクハラとかヘイトスピーチと言われても、どこまでがセクハラだとかどこからがヘイトスピーチだとか線引きが難しいと思います。

私はこれが問題だと思うのです。

 

議論をするに当たっては、その言葉の定義がはっきりしなくては議論になりません。

 

言葉の定義がはっきりしない議論の例として、ある経済評論家等は経済破綻と言う言葉を使えど、何をもって経済破綻なのかはっきりせず議論がかみ合わない、そんな人もおります。

それ程言葉の定義は大事だという事です。

 

さて話をセクハラに戻します。

セクハラ罪と言うものがないにしても、もし社内等で問題にでもなればその人は大きな痛手を被る事になるでしょう。

 

例えば刑法の世界では本人の意思と言うのが問題にされます。

仮に人を殺してしまったとしても殺意が無ければ過失致死の罪は問われますが殺人罪にはなりません。殺意がないからです。

 

このセクハラ問題についてですが、被害者の心情は耳にするのですがセクハラと思われる行為をした側について、相手に対しセクハラ行為をしようと言う意図があったかどうかが議論になったのをあまり耳にした記憶がありません。

 

これではあまりにも議論が一方的過ぎる気がします。

少なくとも「セクハラと言う行為」それがどう言う場合に当てはまるのか、はっきりさせるべきではないでしょうか?

 

そう出ないと恣意的に、これはセクハラだあれもセクハラだと言われた側にとっては、まるで騙し討ちにあった気持ちになるでしょう。

 

また刑法の話になりますが、刑法には罪刑法定主義と言う考え方があります。

これはあらかじめ何をしたら罪になると決まっていて、それに当てはまらない限り裁かれる事は無いと言う事です。

セクハラとかヘイトスピーチにも少しこう言う考えを取り入れた方が良いのではないでししょうか?

さもなければ怖くて安心して社会生活を送れません。

 

行き過ぎると、好きな人が出来て愛の告白をしたら、それで訴えられる。

更には話かけられたので不快感を感じた。

まるで子供に「おはよう」と言っただけで不審者として警察ごとになる、あれと一緒になりかねません。

 

また問題が深刻化すると女性を雇う会社が減少する可能性も否定出来ないと思います。

ひとつの考え方ですが、女性のさじ加減で会社の重役でさえ失脚させる事ができます。

真面目にコツコツ働くより、セクハラセクハラと問題にして口止め料を請求する事も可能でしょう。

そうなってしまっては、もはや企業にとって女性を雇う事はリスクが高いと感じる会社が出てくるかもしれません。

また会社にとってイメージは非常に大事です。もし、セクハラ問題で大騒ぎでもなれば企業の受けるダメージは非常に大きなものになるでしょう。

 

しかし多くの場合その様な方はいないと思います。騒ぎを大きくしているのは一部の方だと思います。

良く耳にする言葉ですが女性の敵は女性なのかもしれません。

 

人口減少

最近やたらと「少子高齢化が…」「人口減少化が」と騒がれています。

そう言うのを聞くとヤバイんじゃないか?何か手を打たなきゃ手遅れになるんじゃないか?という気になります。

でも、本当に問題なのか一旦冷静になって考えて見たいと思います。

こういう風に不安をあおって世論を操作する手はメディアがよく使う手段です。

我々はそう言うのに対し懐疑的に判断する習慣が必要だと思います。

 

さて少子化と言う問題はいつ頃から問題視されたのでしょう?

人口は2008年の1億2808万人をピークに減少に転じます。と言うのも1940年代後半から1950年代前半にかけて政府内では人口過剰論が盛んに議論され1948年には「優生保護法」が制定され国民が望まない出産を抑える等、こうした政策により人口は減少する方向に進みました。

そして明瞭に人口減少の見通しを示し始めたのは1990年の推計からです。その頃は、まだ2090年に1億人を少し下回る程度の見通しでした。

しかし、1995年から人口減少はどんどん厳しいものになって行きます。

こうして今に至ると言ったところです。

政府の将来的な人口に対する見通しに問題があったと言わざるをえないでしょう。

 

ところで皆さんは「合計特殊出生率」と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?

何となく聞いたことあるな…と感じた方が多いと思います。

1人の女性が一生の間に生む平均子供数です。

これが「人口置換水準」に影響を与えるのです。

人口置換水準とは、長期的に人口が増加も減少もしない状態を実現するための水準の事です。

この数字が「2.07」と言われています。えっ2.0じゃないの?と思われた方がいると思いますが自然なかたちで出産した場合男の子が女の子より5%程多く生まれるからです。じゃ残りの0.02は?これは不幸にして亡くなる方を補う数字と言うことです。

 

もう少し細かく人口動態を見ていくにはコーホートと言いまして、その年代をグループ分けして行きます。何故その様な分析が必要かと申しますと、例えば子供を産める年代の女性だとしても、子供を欲しいと考えてこれから産む20代前半の女性と、もう既に欲しいと思う子供を産み終えた30代後半の女性だと、自ずとデーターに差を与えるからです。

 

さてこう見てくるとなんか暗い話題ばかりですが視点を変えてみていきましょう。

人口減少が進み都会への人口集中が進んでいる昨今ですが、実は人口減少ではとらえ方によって地方の方が豊かさが高まるとも言えるんです。

一人あたりの居住面積等、一人あたり指標は人口分の量ですから分母である人口が小さくなることは指標の改善になると言えます。

更に家賃の格差、都会で支出する分の差額を地方では娯楽費に回す事も可能でしょう。新しく事業を興すにしても家賃負担が軽いのは魅力ですし、最近ではネット販売の普及により届くまでの日数がかかるとは言え、入手出来る情報量には都会でも田舎でも大差ないように感じます。

その他の差と言えば規模の経済や夢、憧れ、収入等でしょうか?

しかし、それも家賃負担、一人あたりの使えるスペース、電車や居住空間等、使用出来る空間にはどうしても制限がかかってしまい、それを解消するには支払うコストが高額になってしまいます。

住居に関してもう少し話しますと、立地的に都心部だとどうしても高額になってしまうため郊外に住んだとしましょう。その場合、自ずと機会費用(つまりそのことをしていなかったら出来た事に対するコスト)が特に郊外だと通勤による機会費用が高くなってしまいます。

時間又は余暇と言うのは、ある意味最も高額な買い物だと言えるでしょう。

例えば仕事をしない状態で2~3年バカンスを楽しんだとしましょう。あっという間に蓄えが減っていくのは、たやすく想像出来ると思います。

人それぞれ考え方はありますが、通勤に費やす時間を自分の好きなことに費やすのもひとつの魅力的な選択肢ではないでしょうか?

その時間を定年までと考えたら一体どれ位差が出てくるのでしょう?

それもあってか一部では高校卒業後、地元の大学に進む若者もいるようです。

 

いずれにせよ人口が減少して国全体としてはマイナス成長しても一人あたりの豊かさが向上し続ける事は可能であると言うことです。

一人あたりのエネルギー消費量が変わらなければ国全体のエネルギー消費は抑制されます。

Co2排出量が今のままだとしても、人口が仮に50年後に25%減ったとしたら、なんの努力もしなくても同程度のCo2削減は可能です。

皆さんも国全体の豊かさより一人一人の豊かさの方が問題ではないでしょうか?

 

将来的な国の在り方をどう考えるか?

私は現政権の方針に対して不安を感じる政策が幾つかあるのですが、そのひとつが移民受け入れです。(技能実習生、高度人材等)

私は日本という国は歴史と伝統が守られてこそ日本であると思います。

しかし、私から見ると「日本という国土の人数を、ある一定程度キープする」そこに重点が置かれているような気がしてならないのです。確かにある程度の経済活動、合計特殊出生率はキープされるでしょう、移民受け入れにより人数も保たれるでしょう。

しかし、日本の文化、伝統は守られるでしょうか?私はそうは思いません、一部ではイスラムによる影響が出始めておりますし、ある地方高校では中国人留学生が九割を占め、入学式で校長が中国語で挨拶をして中国国歌が歌われているようです。

このまま突き進めばどうなるか、移民を受け入れた欧州の現状を見れば良く分かると思います。

こうなってしまっては私は日本とは言えないと思います。

日本の総人口や経済指標ばかり気にして、移民受け入れ等対応を誤れば、日本という2700年続いた国でさえ滅ぼし兼ねないのではないでしょうか?

休日

今日はいつもと全く違う話です。

 

今日は子供とプロレスを観戦してきました。

子供に色々な物を見せてあげて子供の世界観を広げて上げるのも親の役割かな?と思いまして。

 

最近、いい大学を出て、いい会社に入っても過労により精神を病んだり、自ら命を絶ったりと近頃悲惨な話を耳にする事があります。

 

人生の成功とは、一流の大学を出て、一流の企業に就職して、豊かな収入と社会的評価を受け、終身雇用の恩恵に授かる。

しかし逆に言えば、そのため一度手に入れたステイタスを捨てる事が出来ず、追い詰められて悲惨な結果を招いてしまう…こんなところでしょうか?

結婚している場合は尚更のこと、多くの場合が夫の社会的ステイタスがそのまま家族のステイタスになるのでしょう。

 

まあ、人の幸せとは主観的なものですし、人それぞれです。

お金もステイタスもあった方がいいんでしょうけど、私としてはどんな形であれ、子供には幸せに、そして楽しく人生を過ごしてもらいたいものです。

 

世の中は楽しい事で溢れていて、一生の間で触れる事が出来ることなんてほんの一部しかないと。

 

んっ?今、子供が寝言で「誰vs誰?」と言いました。

プロレスの続きの夢でもみてるのでしょうか?

本当うちの子って、はっきりとした寝言言うんですよね。

 

さて、私もそろそろ寝ますかね。

不敬罪

これは書こうかどうか迷いましたが書く事にしました。

結構、保守系の人って不敬罪を制定するべきと言う人が多いのですが、私はそれに対して疑問を感じているんです。

私、思うんですけど天皇陛下を敬えないのであれば国籍を離脱すれば良いのではないかと。

それでも日本から出て行かず暴れ回っているのであれば、国の統治機構の破壊と言う意味で「内乱罪」によって裁けば良いのではないかと思うのです。

話を日本の建国から話しますと、確かに神武天皇天皇に即位されるまでは争いはあったと思います。

しかし神武天皇が即位されたとき「八紘一宇」と言う建国の精神を掲げられました。

これは天皇陛下を中心に、全世界が一つの家族のように暮らすと言うものです。

流石にこのご時世に他国までこの理念を押しつける事は出来ないと思いますが、少なくとも日本においてはこの精神に共感出来ないのであれば、他国で生きていく事を選択した方がその人らしい生き方が出来るのではないでしょうか。

言うまでもなく建国の精神とは日本特有のものではなく他の国にも存在します。
例えばアメリカでしたら自由、平等、幸福追求の権利ですし、フランスであれば自由、平等、友愛です。

もし神武天皇が掲げた八紘一宇と言う精神が合わないのであれば、他国の国籍を取得すれば良いのではないでしょうか?

良く左側の人は「八紘一宇」とは、かつて日本が他国を植民地化する際に用いたスローガンであると言いますが私は違うと思います。

まず「植民地」と言う言葉が、いわゆる西洋人型の植民地と日本人型の植民地では植民地を指す意味が違うと言う事です。
我々が植民地と聞いて頭に浮かぶのは奴隷支配ではないでしょうか。かつて日本も「植民地」と言う言葉は使っていましたが、日本人型の植民地化とは率先して日本人が汗を流す事でした。パラオバングラデシュ、日本は日の丸三兄弟と言われますがパラオバングラデシュの方逹が日本に対し好感を持ってくれているからではないでしょうか。

話を不敬罪に戻します。私が不敬罪に対して疑問を感じている他の理由として、敬うと言う行為は刑罰を科すと脅されてするものなのでしょうか?

例えば皆さんも人生で一度は尊敬出来る人がいたのではないでしょうか。その尊敬出来る方に対しての言葉遣いや振る舞いは、自分の友人や家族に対してするものとは違ったのではないでしょうか?

天皇陛下とは「権威」です、「権力」ではありません、権力より上にあるものなのです。例え力によって権力を手に入れたとしても、それを上回る存在が天皇陛下なのです。そして天皇陛下は政治を行いません。当然、政治に対して責任をおいません。(例外的に、後醍醐天皇がやむにやまれぬ事情により政治を行おうとしましたが追放されました)

では、「権威」とはなんでしょう?私は権威とは「尊敬と信頼」ではないかと思います。
皆さんが尊敬出来る方に礼をはらうのは、その人に暴力を振るわれるから、とか暴言を吐かれるから、ではないと思います。その人を信頼し尊敬しているからではないでしょうか?
もし、脅しによって表面上従っているのであれば、それは「権力」によって抑えられている状態なのではないでしょうか。

刑法についても少し触れておきます。刑法にはその犯罪によって得られる満足感より、その犯罪を行って科される罰を重くする事によって犯罪を未然に防ぐと言う働きがあります。
ですから「不敬罪」と言う法律が制定されたとき、天皇陛下を冒涜するような感情を持った人がいたとします。その人は本当は天皇陛下に暴言を吐いてやりたい、しかし不敬罪がある、だから表面上おとなしくする…。

果たして天皇陛下はその程度の存在なのでしょうか?刑罰を制定する事により脅して従わせる、そんな存在なのでしょうか?我々は尊敬し信頼出来る存在、その様な存在の前では自然と礼を払うものなのです。刑罰があるから従うのではないのです。私は「不敬罪と言う法が存在する事が天皇陛下の存在を矮小化して不敬」ではないかと思うのです。

例えば「あいさつ」の話に例えましょう。あいさつをされたときに、あいさつを返さないとしましょう。
大変失礼な事ですが、別に罪にはなりません。でも罪にならないからそれでいいのでしょうか?
はたまた「あいさつ無返答罪」のような罪を制定して強制的にでもあいさつさせるようにした方が世の中良くなるのでしょうか?私はバカバカしく感じます。皆さんもそう感じたのではないでしょうか?
あいさつされたら、あいさつを返す事が常識だと思うからです。そんな最低限の常識を持たない人には社会的制裁が下るのです。廻りの人が指導するのです。

私がこの「不敬罪」と聞いて頭に浮かぶのが「習近平クマのプーさん禁止」です。
もし日本が独裁国家だったなら不敬罪は納得出来るのです。何故なら力で押さえ込むやり方だからです。
しかし、日本は民主主義国家です。民主主義国家とは、ある程度国民の理性によって成り立っているところもあるのではないでしょうか?もし、どうしても不敬罪と言うものを制定するのであれば学校教育で神話なり古事記を学習させる事により、国家のなり立ちをしっかり理解させる事も同時にするべきであると思います。いや、現時点でも教えるべきです。
戦後の学生運動の原因はGHQによる神話学習禁止、それに代わり学習する意義の低い石器時代に変えられたこと、それにより天皇陛下に対して敬意を払えなくなったのではないかと思います。

いずれにせよ、私は神話から学び、古事記、日本書記等しっかりと国家の成り立ちを学んだにもかかわらず、皇室に対して敬意を払えない者がいたならば、みんなで日本から出て行けと声を上げて叩き出せばいいと思います。それと同時に日本人の理性によって守られていく皇室であってほしいと願います。

さて、ぐっと話題性は変わって「神」の話です。
神の話って言うと変な宗教への勧誘とか…なんか胡散臭いイメージがありますが
今回は日本に古来からある「神道」の話です。日本中に沢山ある神社についての話です。
ところで神社って元々何なのか考えた事ありますか?実は神社って今で言う市役所のようなものなんです。
だから「神官」って言うじゃないですか。
その当時、朝廷で何か新しい決まり事を決めたとしても、それが民に伝わらなければ意味がありません。
その伝えるところが神社だったんです。ですから神社を通して行政を行っていたと言う事になります。
ですが、大東亜戦争GHQにより国家神道が禁止され神社を国家が管理出来なくなり、神官と言う職名もなくなりました。
神官と言うのは昔の名残なんですね。
さて、その神道ですがこれは宗教かって言うと、私はいわゆる宗教(西洋のような一神教的な教え)とは違うと思うのです。
何故か?まず「教義がはっきりしない」
神道の古典として最も基本となるものは「古事記日本書紀」ですが、これは神話と言うか歴史書であり
人としての生き方について直接教えを説いている訳ではありません。
キリスト教の聖書では神への愛を、仏教では悟りと慈悲を説く
まあ、古事記を深読みしたらニニギのお父さん(アメノオシホミミ)が天降るはずでしたが、息子のニニギノ命が天孫降臨により天降られた。本当は自分(アメノオシホミミ)が行けば楽だったけど息子のニニギノ命に大切な仕事を任せた。
常日頃から厳しくしつけているから息子ならきっとやれるはず、何かあったら全て自分が責任をとる、俺は息子を信じて託す。…と言う感じてしょうか?しかし、ここまで深読みして読む人はどれ程いるのでしょう?
さて西洋宗教と日本の宗教、つまり神観念の違い
大きな違いは日本の多神教に対して西洋の一神教
日本には「八百万の神」と言う考えがあります。しかし一神教は一つの神様しか認めません。これが他神教は野蛮である。だからxxしても良いとの根拠になっているようです。イギリス人がインディアンを大量にやっちゃったのも、それが根拠であったようですしインディアンを追い出した後にトウモロコシ畑を見つけた時も神の恵みだとの事です。これが一神教です。西洋人からしたら七福神が同じ船に仲良さそーに乗ってるなんて信じられないでしょう。これが日本人の素晴らしさなんです。
さて、先程から「神」と言う漢字を使っていますが、これは中国文化が伝わってからの表現であって元々は「迦微」と言う字を使っておりました。昔は文字を二つ使うと言う決まり事があり「紀伊国」も元々は「木国」だったようです。
じゃあ今三文字で表している「鹿児島」とかはどうなの?と思った人がいるのではないでしょうか?
なんとそれも二文字で表していたんです鹿児島の「鹿児」を縦にくっつけて一文字にして「島」をその下を書き、それで鹿児島と表してました。凄い力わざですね…興味のある方は古文書を見て下さい。
さて元々の「迦徴」(日本本来のと言う意味)どんな存在だったのでしょう。
本居宣長はこう述べております「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き(かしこき)物」これが迦徴の定義です。
じゃあ「徳」ってなんでしょう?古代日本では「勢い」や「力」を表していました。
日本書記では「徳」を「イキオヒ」と読むところがあります。イキ(活力)息、生き、全て力強さのようなものを指しています。「イノチ」こちらは「イ」(生命力、息)それと「チ」(勢力)つまり「息の勢い」を表しています。
私たちは「徳」と聞くと善人とか正しいとかそんなイメージがありますが…でも悪徳もありますよね?
どうもこの「徳」とは道徳的な善悪の事とは違う事を指しているようです。
つまり「徳」は勢いそれも「尋常ならず力」を指しています。ですから近づき過ぎると危険な存在でもあります。
例えば火山、狼を神として祀るところもあります。つまり神とは生命、活力の根源であり恐怖の対象であり畏怖するべき存在なのです。
神が持つ霊的な力、それが分与され人の生命、活力、霊魂になる。これが「食べる」とか「紅葉狩り」と言う行為です。
昔の人は季節は霊的な力によって変わると考えていました。その霊的な力が一番最初に宿るのが花や葉っぱだと思われていました。そう言う物に触れる事によって魂の蘇りを願っていたようです。
さて、食べると言う行為によって本来人の体には内在しない力を取り込み、初めて人の体に生命力、活力、霊魂が宿る。
しかし人は必ず死ぬものです、それは本来「生命力、活力、霊魂と言う物は人の体にはなかった」と言う証拠だと考えられていました。
まあ、神様とは食べ物とも考えられるかもしれませんね。ですから小さい頃「食べ物を粗末にするな」と怒られるのはこう言う意味だったんですね。ではこの辺で